上杉謙信特化型のブログ ですが、ちょうどNHKで直江兼継をやってますので、謙信以後の景勝、兼継主従のことなども混ぜてお話したいと思っております。

2009年9月21日月曜日

『毘沙門天』の旗印

   『毘沙門天』





 毘沙門天は四天王の一神で、北方を守り、仏法を守る仏神である。
 古来より日本では東北、東日本に祭られており、軍神として以外にも
精神的なよりどころとされてきたのである。
 それは主に蝦夷(先住民族)と大和族の対立の結果とも言える。当時、彼らの存在は脅威であったのだ。

 毘沙門天は戦い・勝運の神であり、須彌山の中腹に城を構えて北方を守り、いろいろな夜叉や使者を統率して、仏法を守護しているという。


  『毘沙門天』軍旗   

 毘沙門天軍旗は上杉軍のシンボルといってもよい旗である。
 大きさは畳二畳ほど(それ以上かも)の大きなもので、字体は力強い。
 上杉軍の強さとあいまって、この旗のはためくところ敵がみな逃げ出したという。
この軍旗だけでもかなりの効果があった。
 たった一字に刻まれた旗なのに、不思議である。
 見ていても何かしら勇気がわいてくるのである。
 それはこの旗が正義の旗であり、その意味するところの背後にある上杉軍と越後兵の存在が、また不気味に威圧しているからだと思う。よき心を持った人はこの旗に安心感を覚えるが、邪な心を持った人は恐怖を抱くのである。それは彼らが毘沙門天によって狩られる運命にあるという証である。

 私はそれが現代にも通用すると思っている。この悲惨な事件の多い世の中、正義なくしてなにをよりどころにすべきか? 海外の悲惨な戦争や紛争事件を聞き及ぶにつけ、毘沙門天の旗が脳裏によぎる。

『懸かり乱れ龍』の旗

 この軍旗は上杉軍の総攻撃の際に陣頭に掲げられる、つまり「全軍突撃」の合図である。
 満を持した総攻撃の様は身震いするような光景えあったろう。
 生きるか死ぬか、どちらかなのである。引くことも逃げることも許されない。
 武田軍は果敢に立ち向かったが、関東ではあっという間に陣が崩れたり、逃げる軍勢も多かったという。
 
 実際問題、武田にしろ、北条にしろ、上杉軍との総掛かりの戦いは避け、軍を引くことが多かった。
 そして上杉軍がいなくなったころ、また来るのだ。
 川中島の戦いは例外で、いつまでも逃げていては仕方がないと、信玄が越軍の二倍以上の軍を動員し、
決戦に出たものと思われる。
 もちろん「懸かり乱れ龍」の旗が掲げられると同時に上杉軍の突撃が始まった。


 私の家に毘沙門天の旗と、懸かり乱れ龍の旗がある。
 東北の義経を求めて、平泉へ行く途中、上杉米沢藩の会った米沢にも足を伸ばした。
 上杉家の廟所を訪れた際、神霊のお導きか、上杉藩の鉄砲隊の隊長に出会った。
 まったくの偶然であろう。
 米沢には今でも鉄砲隊がある。その人は体格の良い大柄な人だった。
 次に菩提寺に行くと、おまいりが出来るようになっていて、上がらせていただき、仏に合掌した。
 するとその合掌する手が左のほうに信じられない力で動いていった。そこには多分、謙信公以来のものであろう毘沙門天立像が置かれていた。毘沙門天が私を待っていてくれたのだ。
 するとうしろで様子を伺っていた住職が、応接間に招じ入れてくれた。高梨さんという人だった。
高梨姓は旧北信濃の豪族で、川中島以後、ずっと上杉家に仕えた。
 市内を散策し見つけた染物屋が、この旗を造ってくれた。昔より上杉に関わる家柄なのであろう。
 毘沙門天のお導きというべきか。

上杉謙信と織田信長ーー小説本文記憶

     〈これは私の製作途中の小説です〉
上杉謙信が死なず、織田信長と同盟を結び、大陸ではなく、ひたすら西洋方面に押し出すという作品で、
ほか各武将がオーストラリア、アメリカ大陸など様々な地域、つまり地球全土に侵略の触手をのばすという
奇想天外な小説です。

チンギス・ハーンの信長版のような感じです。だからかなり面白いと思いますよ。
現在、ロングセラーの夢にむけてがんばっています。






 上杉家家臣、直江兼継でござる。

 今回著者殿より時空を超える業を授けられ、本書の案内役を仰せつかった。以後よろしくお見知りおき願いたく御座候。

 謙信公、景勝公二代にわたってお仕えし、政はたまた数多の戦に参陣し候が、――さて今回は我が親族とでもいうべき織田家のことなどを物語りし、「上杉陣中仔細」についてはいずれ改めてということにしたい。







  「謙信・信長会談」




 歴史にいくつかの選択肢があるように、本当はいろんな歴史の世界があるのかもしれない。



 
 信長は首里城とは反対方向の新造の館の一室にいた。

「――あれから三年が過ぎた。ずいぶん時間がかかったものよ。○年八月――あの阿呆との会見もちょうどこの頃であった。」

 あの阿呆とはつまり「上杉謙信」のことである。“阿呆”というわりには謙信に対しては一度も挑まなかったし、他の武将もそうであったが決戦は極力避けてきた。謙信をまるで人喰い虎のような扱いである。 





 ○年――、京へ上洛した上杉軍と、摂津・和泉・河内方面に退却した織田軍は戦線が膠着した。時の帝、正親町天皇に和睦の調停を奏上した。

 会見が執り行われたのは八月七日であった。



 本能寺の大広間には上杉家のそうそうたる顔ぶれが勢ぞろいしていた。

 甘粕・直江といった長尾以来の譜代の重臣たち、柿崎の先陣で名高い柿崎景家らを筆頭とする、北条・宇佐美・荒川・新発田ら剛の者たち。
謙信亡き後の跡目とも目される長尾景勝の上田衆、いずれもおとらぬ強者ぞろいである。



 信長は馬にまたがり傾いた格好で都大路を闊歩していた。

 派手な南蛮笠をかぶり赤青の小袖を羽織り、
肩には金銀を施した鉄砲、腰には朱塗りの抜くのに苦労しそうな長い大小をさしていた。

 しかも柿をかじりつつ食い終わっては、御付の者が新しい柿を差し出していた。



 謙信は探りに行かせた透破の報告を聞いて、
面白いやつだと思った。なかなか謙信も珍し好きで新しいものが好きだった。



「織田信長様御成り――」

 すでに一刻は待たされている。

 家来衆はいい加減イライラし出していた。

謙信も気が短かったが、今日は珍しくのんびり構えていた。




「上杉謙信公にはお健やかであらせられ、恐悦至極に存知あげます。」

「いや、そのように改まれてはかえって痛み入る。」謙信は信長の思わぬ低姿勢ぶりに戸惑い、少し狼狽気味であった。

「両家とも互いに恨みつらみがあるわけでもなく、武家の習いとて戦となった。子供の力比べのようでもある。

 信長どのの思惑を委細なく述べられよ。」

「ハハ、ありがたき幸せ。」

 信長はあくまで謙信を立てていた。

「しからば存念を申し上げます。

 信長は日本国天下統一に執着はござらぬ。」

 凛とした信長特有のすがすがしい声が堂内にこだまし、上杉の家臣たちは低く唸るようなざわめきを漏らした。

 続けて――、

「国内のことは上杉謙信公に任せ、それがしは海へ漕ぎ出す所存に存知ます。

 西へ果てなく漕ぎ出せば多くの国があると南蛮人より伝え聞いております。信長はそれらを平らげるのが望み――日本国はいり申さぬ。」

 さすがに謙信を愚弄してしまうような、「ちっぽけな日本国」とはいわなかった。けっきょくそこにしがみ付いている人間もちっぽけな人間になってしまうのだ。そうなると謙信は怒るに違いない。






 ――堂内はしーんと静まり返った。





「南蛮か――これはオモシロイ。」

 謙信の大きな声が響きわたる。心底面白がっているようだった。 


 謙信にも南蛮の文物などには興味があった。
しかしもう齢五十に手が届こうとしている。人生の大半を武田信玄、関東の北条氏康との戦いに費やしてしまった。

 もう少し若ければ――武田信玄さえいなければ――上洛して何か出来たかもしれない、と思う。


 自分より若い信長がうらやましかった。



「ほう、これは豪快なことよ。南蛮を攻め取るか……?」


 謙信も内心ほっとしていた。


 関東は一応北条と同盟を結んでるとはいえ安心できるものではない。自然瓦解ということも無きにしも非ず〈ないということはない〉。


「そこでお願いしたき儀は、信長の持てる美濃尾張ほかすべての領地を奪われては、西国征伐はおろか明日の飯にも事欠きまする。

 であるから日本国譲渡のことは西国討伐以後ということでお願いしたくございます。」


「うむ、さもあろう。」


 謙信はこのまま信長を打ち滅ぼしてやろうとも思ったが、考えて見れば今までに自分から滅ぼした氏族はいない。敵の武力を無力化すればよいと思っていた。



 
 謙信にとっては東が気にかかるのも事実である。犬猿の仲の最上領(山形県)とも接しているし、その向こうはまったくの手付かず、関東は一応同盟がなされているとはいえ、自然氷解
する恐れもあった。

 そこで謙信は一計を案じた。


「どうであろう、信長殿。ここはひとつ力をあわせ、互いの敵を打ち滅ぼしてはどうか。」

 信長は微かに微笑んだ。


「易きことに御座りまする。さすればわれは西国の戦を一時やめ、全軍を持って東を攻めましょう。


かわりに謙信公にも西国攻めの助力をお願い申し上げます。」


「うむ、しかと承知した。東国の軍勢を率いて参ろう。思うに任せて越前より西へ攻め入っても良いぞ。」

「ありがたき幸せ。さらばそれがし、明石辺りより攻め下り、更には四国の長曾我部も討伐できまする。」

 信長のほうも限られた命、南蛮まで行こうと思えば日本などにいつまでも関わってはいられない。逆に上杉との戦は棚から牡丹餅だったのだ。

 上杉は上杉でこれまた厄介な敵を始末できるので願ったり叶ったりであった。

 謙信も体力的にいつまでも精力的な活動を続けられないことは、自分自身よく感じていた。
 時間がない――かなり焦っていた。

 一刻も早く天下を統一したい。出来ないまでも、道筋くらいはつけておきたいものだと思った。


「美濃・伊勢・尾張については元々の出生の国、好きにされるが良かろう。」

「それはそれは有り難き幸せ」


 信長は京より東は諦めていたのだが、それを安堵されるのは瓢箪より駒である。

 信長はすべてを手放しても良いと思っていた。
あとから奪い返せばいいのだ。実際それは可能なことである。この室町幕府の創始者でさえ、京から飛び出してまた奪い返しにきた。そしてまた京を追われ、またもどって来た。


 軍事の鉄則は一箇所に執着してはならないことである。


“まったく興味はないが、いざとなればくれてやったものを、返してもらいに来ればよいだけのこと”


 信長の理論はいたってシンプルで単純明快、そこが他家との違いで、行動力やスピードに影響が出てくるのだ。

 とりあえずは日本国を二分割で統一を進め、後の移行は信長軍の働きと成功にかかっている。
問題は様々に出てくるだろうが、実際やってみなければわからない。

 結局日本の海外進出であるから、本国の支援も必要になるであろう。要はビジネスの世界と同じである。



 
「これよりのちは上杉織田の連合といたそう。委細は追って決めることとする。信長どのもそれでよろしいか?」

「はは…………ただ、ひとつだけ本願寺門徒が少しうるさいので何とかできないものかと……。」


「それではさっそく東国へのご助成を願いたい。
彼らを始末せんことには身動きが取れぬのでな。」

「相解り申した。ではさっそく軍勢を整えましょう。」





 織田上杉会談は無事終了した。

 さっそくに将軍を京へ呼び戻さねばならない。
と言っても「どうぞ席が空きましたのでお戻りください」と言うわけにも行かない。

 謙信は直江兼継を将軍への使者として遣わすことにした。うってつけの人材であると思った。

 また謙信は将軍寄りの人物と言うことで、細川幽斎や明智光秀らの名を伝え聞いており、将軍に対する対応を聞きたいと言う名目で、両名を茶会に誘った。

 彼らには信長とうまくやってもらおうと釘をさしたのだ。こじれてしまうと信長がつむじを曲げる可能性がある。











 上杉謙信は軍勢を率れて越後へ帰った。
 
 雪解けが始まるころ上杉軍は待ち構えたように三国峠を越えた。

 北条勢は「すわっ、上杉の攻勢だと色を失ったが、前橋で近郷の軍勢を集めるとそのまま西方の山岳を目指した。上野国境より信濃へ侵入を開始した。

 まず海津城の高坂弾正が取り残され津波に飲み込まれるごとく消滅した。まったく甲斐の援軍は到達できなかった。

 そのまま上杉軍は信濃を席巻、そのほとんどを掌握した。

 時を同じくして美濃尾張でも大軍団が発向し、
伊那口からは織田信忠の本軍、天竜口より徳川家康と伊勢・尾張衆が進軍した。





 上杉謙信は武田に矛先を向けた時点で北条に書を発し、自体を静観するよう要請する。

 上杉武田両軍は激突し、織田軍の動きを察知した武田方は浮き足立って総崩れとなり、甲州方面へと撤退した。




 謙信は諏訪領諏訪大社に参拝した。さながら凱旋将軍のようであった。

 古来より由緒ある大社なので謙信は厳かに慎み拝んだ。

 諏訪の湖を望む沿道には近郷の村人やら町衆地侍など諸々が、〈あれが越後の謙信公よ〉と畏敬の眼差しで眺めていた。

 諏訪領はもともと武田家に征服された土地である。無理やり屈服されてはいるが、心うちでは武田に信服してはいない。

 町や村からささやかながらの食料や引き出物が、上杉軍将兵に差し出された。

 


“あとは織田勢に任せておけばよい。上野にもどって相模の北条を討つか――。

 しかし、あの信長に任せておけば必ずや勝頼を殺すであろう。勝頼は良いが武田を滅ぼすのはのう……。”

 武田は源氏重代の家柄である。数々の源氏の家柄が滅んでしまった現在では、足利家をのぞけば征夷大将軍を名乗れる家柄である。また鎌倉幕府や足利幕府創生期には常に本宗家を助け力となった。しかし、源氏本宗家からは常に警戒されていたことは事実である。

 


“どうしたものか…………。”



 逡巡しつつまた一方で謙信は、占領した広大な信濃領の動員力を知るため、上杉景勝に命じ、諸豪族を糾合し好を図らせることとした。

 それにはまえもって直江兼継を呼び、じかに仔細を話して聞かせた。兼継の力量を早くから見抜いていたのだ。

 直江兼継は背の高い美男子であり、明朗闊達
であった。それはまさしく外交官として最適である。ただ伝えるだけでなく自身で計算の出来る動くコンピュータである。




「すこし信濃領に入りすぎた。ここから上野に戻るよりも武田領を通過して行ったほうが早いかも知れぬ。」

 謙信は軍勢を整えると甲斐武田攻めの大号令を発した。

 上杉織田連合軍は甲斐へ向けて進撃を開始した。






  「信長岐阜出発」




 信長は嫡子信忠を東方遠征軍の総大将とし、五万の軍勢をつけ、発進させた。自らは三千の旗本馬廻り衆のみで、すこし遅れて発進した。



 信忠を家督として前面に出させ、後方より支援する構えである。信忠を信頼していた証であろう。


 備前の毛利への備えとしては羽柴秀吉に二万をつけて当たらせた。本願寺は上杉方からの書簡によりいまのところは平静を保っている。

 すでに京には足利義昭が上洛しており、また新たな幕府を築かんと張り切っていた。
   
 上杉をはじめ将軍や朝廷なども、信長には腫れ物に触るような神経の使いようだった。上杉と織田が更にぶつかるようになれば、ようやく統一の兆しが見え始めた戦国の世もまたあと戻りである。

 誰も今更それを望む者はいない。




 
              

  「武田氏の終焉」




 上杉謙信と織田信忠が始めて会見したのは、恵林寺だった。



「おお、これが信長殿のお子か――まことに頼もしい。」

 謙信は信忠が一目で気に入った。おのれの心に近いものを感じたのだ。


「これは川中島合戦で音にも聞こえた上杉謙信公にお目にかかれるとは、光栄の極みに存じ上げます。」

 清清しい声であった。美青年のわりには自身合戦で打ち太刀におよぶほどの激しい性格も持ち合わせていた。



「さすればこれより相模領になだれ込んで小田原を討つことに相なるが織田軍はいかがなされるか?」

 謙信は織田軍の動きを計りかねていたので、そう聞いた。

「これは心苦しきかな。父信長には謙信公の下地に従えと仰せつかっております。公についてまいりましょう。」

「おお、それはありがたい。小田原城はなかなかの堅城にござる。なかなかどうして一筋縄ではいかぬ。かつてあの城を攻めて失敗したことが御座ってな。」

 そういって謙信の顔が曇った。



 あれは謙信二十歳のころであった――。




 上杉憲正に上杉家の家督を譲り受け、越山し関東へ入った。瞬く間に関東平野を席巻し、その勢いはまさに無人の野を行くがごとくであった。


 謙信の小田原攻めに馳せ参じた軍勢は十万はくだらないと言われた。今日の織田ならば十万くらいは簡単であろうが、それでも総動員数である。謙信のそれは実際に支配してなく何の強制力もない、完全に与力の大名である。



 三十年前にはそれだけの動員力を誇っていた大名はいなかった。また現在でもその大動員は可能であり、底知れぬ存在感を持っていたことは確かである。



 
「はじめは小田原城を埋め尽くすほどの軍勢であったが、戦が長引いていくうちに兵が勝手に離れていってしまい、そこへ信玄めが動き出したのじゃ。いまはなきお人ではあるが、なかなかの狸で御座ったよ。」

「城攻めは上方でも日常茶飯事でござれば、諸将、兵なども慣れて御座ります。ご安心めされ。


「おう、それは頼もしい。」

「しかし謙信公のご活躍は伝え聞いておりましたが、こうしてじかにお聞きすると格別で御座いまする――もっとお聞きしとうございますな。川中島の戦いはいかがでござったか?」

 信忠は身を乗り出して質問攻めにあわせる勢いである。

 謙信も旧知の友にでも会ったような不思議な感覚を覚えさらに饒舌になり、川中島合戦のことに及んだ。





  
  「相模侵攻」






 上杉織田連合軍はいよいよ山塊を抜け出て相模領へと進入を開始した。
 


 謙信が単騎で信忠の馬近くまで駆け寄ってきた。織田軍の兵士は二度とお目にかかれるかわからないかつての敵将の姿をまじまじと見つめていた。

 織田軍の将兵の間では、すでに謙信の気さくな人柄が人気となり、彼の姿を見つけると一様にみな笑顔になり、騒がしい雰囲気となった。謙信はちょっとした人気者であった。

「これはこれは謙信殿自らお越しくださるとは。」



「いやなに、こんな遠くまで御助成たまわりこちらこそ恐縮に存ずる。さっそくなれば信忠殿、
われはこれより北へ向かい軍勢を集めに向かいたいと思う。されば信忠殿は近在の城を攻め落としつつ小田原に向かわれるがよかろう。北条勢が乗ってひょこひょこと出てくれば儲けもの――すぐさま駆けつけ、氏康めの首をねじ切ってごらんに入れる。」



《グーグルアースより拝借しました。》
――引用タグ

そういえば私のすんでいる近くに、やたら源義経に因んだ史跡がある。川崎の麻生区の当たりだが、義経やら弁慶やらがあります。どうやら奥州と上方を結ぶ交通の要衝であったらしい。






 翌日、謙信が朝のうちに出立しようと朝飯をとっていると、信忠が直接幕営にやってきて言った。

「謙信殿、昨夜あれこれと考えるに、某も関東の地を見とうござる。関東の兵どもがいかほどのものなのか、謙信殿といっしょに北条の兵やそれに従う土豪どもを平らげて、それから小田原に向かっても遅くはないと存じますが。」


「……ほう。それはかまわぬが、あ、いや、こちらとしては有難いが、それで構わぬのか……?甲斐・小田原の参戦だけでも有難いのに、関東平定までお付きあいくださるか?」

「望むところでござる。この信忠、謙信殿とどこまでも行きとうござる。」




 織田信忠については若くして父とともに亡くなられたため、その人となりがあまり知られてないが、勇猛な性格であったらしい。大将がそれだと下の者がはらはらしてどうしようもないが。

「わかり申した。真にかたじけない。」

謙信は信忠にまるで父親のように慕われているように思えた。

 戦国時代は過酷な時代である。子供も父親とは別のところで生まれ、育てられ大きくなる。

 信忠は嫡男だが母親の違った次男三男ともなれば母親の実家で育てられることになり、まったくの別居である。


 
 

 武蔵野といわれる関東の大平原にでた上杉織田連合軍は、燎原の火のごとく、瞬く間に関東を席巻し、北条勢力を一掃し各地の豪族たちを吸収した。

 まず手始めに間近の八王子城を圧倒的な軍勢で取り囲み攻め落とす。

 ○月、大軍は多摩川を渡り、あっという間に世田谷城を飲み込む。もとは反北条の旗頭であった太田資正の城「江戸城」を包囲した。いまは北条勢の常陸方面に睨みを効かす戦略拠点となっている。


 常陸はいまだに反北条の勢力が根強く、佐竹を筆頭に結城・小田また隣接する宇都宮など、歴史に名を刻んだ名族たちが盤居??していた。

 なかでも佐竹氏は源氏の名家であるが、このころになると力の支配する世界――血筋の効力などは何の役にも立たず、各地に乱立する小豪族を束ねることは到底不可能な状態であった。

 大田資正が城を取られたのにはちょっとした経緯がある。ながく山内上杉家に仕え、かつては反北条の旗頭として北条の北進に立ちはだかがっていたのであるが、あるとき所用で城を留守にしていたときに、長男が裏切り北条氏に寝返ったのである。そのまま城は血を流さないまま北条の手に落ちた。

 嫡男は太田資正が次男ばかりをかわいがるので、廃嫡されると思い北条氏に好を通じたのである。まさしく親子相食むような殺伐とした時代である。


 ここは江戸衆ともいわれ北条家臣団の筆頭に上げられているほどの力があったのだが、蟷螂の斧のごとく押しつぶされた。
 

 いかに抵抗したとはいえ、このような状況下では荒波にもまれる流木のようなものであった。



 上杉織田の将兵たちが夕餉をとりそろそろ寝につこうかと思っているとき、上総・下総(千葉)方面よりまた新たなる軍団が近づいていた。

 かつて上杉謙信と同盟し一貫して反北条の姿勢を貫いた里美義曉の軍勢であった。

『南総里見八犬伝』に登場するあの里見義曉である。

 ちなみに里美氏は新田・足利と同族であり、新田氏から分かれ安房の地に土着した源氏一門とも言える名族である。




 ちなみに寄り道ですが、里美氏についてちょっと耳寄りなお話をすると――

 里美氏は足利氏や新田氏と同じ源氏であり、上野の新田氏から分かれて房総に地盤を築いたという。

 さて、「八犬伝」であるが、実はちょっとホラーな逸話が元になって生まれているのだ。

 (かなり記憶があいまいになってます。ご容赦……。)

 里美氏はなにかしら幕府に目をつけられて改易させられたのですが、安房の地から家来たちが主家を慕って訪ねあて、その地で死に、墓が八つあったかどうかは知りませんが、それが滝沢馬琴をして「八犬伝」の発想を得たということです。江戸時代の伝え語りとして、

〈その塚の近くにある家族が住んでいて、山賊が押し入ったのだが……すると中に血だらけの
鎧武者が八人??いて、真っ青になった山賊が逃げ帰った〉ということです。そんなところから物語が生まれたのかもしれませんね。

これは郷土史の本を駅のキオスクで買って読んだ記憶によるものですが、検索で調べたところ出てきませんでした。都市伝説ではありませんが隠れた秘話というところですね。





 黒い軍団が夕映えに染まる荒川土手の草叢(くさむら)に少しずつ姿を現した。

 やがて漆黒の軍団も闇に溶け込んでゆき、甲冑・槍、旗幟だけがわずかながらにシルエットを描いていた。


 反北条の急先鋒里見義弘の軍勢であった。

 国府台合戦で北条勢に大敗し、安房の山塊に押し込められたものの、水軍はなお意気盛んであり、いまだ北条水軍と浦賀水道において激戦を繰り広げ一歩も引かなかった。

 

 さっそく江戸城内に招じ入れられると、上杉諸将、織田信長の家臣らの居並ぶ広間へと通され、夕餉で一行をもてなしながら酒も交わされ、様々な会話もなされたが、その中で――、

「里美殿、これからは船がたくさんいる。ぜひ兵士の多く乗れる船を工面してくださらぬか。
すぐに全部は難しかろうが、なるべく多くあれば信長殿の軍勢も難波の津辺りまで海路を開けるはず……」と、里見義弘に対し極めて重要な要請をした。

「委細承知仕った。もともと我らは丘(陸)よりも海が庭場でござる。謙信公、また信長公を船でよろしければどこまでもお連れいたしますぞ」



 里美およびそれに呼応した房総の土豪ら総勢一万を加えた上杉織田連合軍は、ここ江戸城で軍団の休養・物資補給などをふくめた再編成を行ない、北上作戦に備える。

「信長殿もまた家来衆も長旅の遠征でお疲れであろう。しばしこの地で兵馬を休められるがよかろう。」

 信長も兵らの顔や雰囲気を見て疲労をさっしていたので、素直に謙信の計らいを受け入れた。
「はは――では有難く。」

 信長はニコニコと機嫌よさそうに微笑みながら謝辞を述べた。

 信長は無駄なことは一切しゃべらず、しかもかなり要約してしゃべることが多かった。

 さらに――

「もしよろしければ信忠をお付けいたしますが――あれのほうも随分と謙信殿になついておる様子――」 

「……おお、誠でござるか。そうしていただければ心強い――」 




 謙信としては言いづらく、はるばる京・近江、
東海方面から軍旅を重ねてきた織田軍の将兵たちを休ませたかった。


 が、しかし、今回のことは今まででは想像しきれないものであり、都から来た装備の整った軍勢を見せ付けることで、関東諸将に対しても
宣伝効果があり裏切りや離反をさせないためにもよいのではないかと思った。 

「謙信公のご威風とあわせて、我が織田軍の力を見せ付けておけば、これからの統治にも何かと都合がよいはず……」信長はいった。


「それもそうじゃ。ならばあり難くお受けいたす。」





 九月○日、上杉軍三万と信忠軍二万は、北征に向けて出発した。

 かなり手こずったが、先に陥落させた八王子城には、上杉家中でも勇猛をもって鳴る本庄繁長ほか揚北衆六千を配置してある。

 揚北衆じたい元々の動員兵力は三千騎そこそこであるが、北陸から甲信越と行軍したせいで、兵力も徐々に膨らんでいたのだ。換算すればざっと千キロ近い道のりである。

 謙信は北条氏康がなぜこんな山の中に城を造ったのか不思議であったが、武蔵の松山城へ抜けるにはそこを通るのが一番近道なのだ。そして今度の攻撃目標に松山城も上げられている。



 野営の陣中――。

 謙信は酒盃をかたむけ、朱の差した顔に眼をぎらつかせ、何事か思案に暮れていた。

「騎西城か松山城か……」

 騎西城はだいたい関東平野の中央にあり、北関東制圧を目指す北条軍の最前線であった。

 かつて臼井城を攻めたとき、軍神であるはずの謙信が大敗を決した因縁の城である。

 それというのも臼井城には「原某」という戦上手がいたからだ。謙信を負かすほどであるから只者ではないのだが、その後戦史には登場せず謎の人物である。

 しかし北条軍の進撃はここではたと止まってしまった。ここから先は強豪がひしめいている。
 佐竹、小山、結城、宇都宮など、何れも必ず歴史の重要な部分に顔を出している名族である。
北条が威勢のわりには関東を手中に出来なかったのは、謙信もさることながら彼らが徒党を組んで、それ以上の進撃を許さなかったからである。

「やはり騎西・臼井(中央部)を片づけてからにするか……」――それから松山城に向かっても良かろう――謙信はそう思った。




 ――そのころ織田信長は滝山城に立ち寄り防備状態を検分、少し頼りないのを感じ――篭城で頼りとなる鉄砲隊の兵士約五百と、滝川一益の兵三千を残して相模野へと出る。 

 謙信のほうからは何も言ってこなかったが、信長自身多少疲れていた。身、自らが出向くまでもなく、謙信に任せておけばよい――身は北条勢の備えをいたそう――そう考えた。

 進軍速度は緩やかである。

 ――まさか北条軍が出張ってくるとは思わなかった。



 そのまさかであった。北条軍が奇襲攻撃を仕掛けてきたのである。

 信長も桶狭間で今川義元に対し奇襲攻撃をかけたが、奇襲は北条家の十八番(おはこ)であり、そもそも上杉関東管領家を打ち破った「川越の夜襲」は有名である。謙信相手だとすぐ逃げてしまうが、そうでなければ相当強かったのであろう。実は源平から鎌倉・室町――足利尊氏の時代まで、どこの武士が最強かといったら、武蔵・相模(埼玉・神奈川)の兵だったのである。

 それに比べ信長のところは尾張の弱兵といわれ、戦国時代最弱の軍隊だった。

 信長の偉いところは普通だったらあきらめるこの最弱の軍隊を、鉄砲・最長の長槍ほか様々な改革によって、強大な軍事力に仕立て上げたのである。




 信長は相模野に出て、小高い山々、丘陵地帯、草原に軍を進ませながら、なにやら背筋を虫が這うような、気が落ち着かない気分であった。

 

 小机城は後もう少し――一刻(二時間)も行けば先陣がつくであろう。それからが長いのだが――。後詰として後からゆるゆると歩を進めていたのだが、信長軍だけでも三万もの大軍団であり、全軍が小机辺りに宿営するまで、半日はかかる。



 小机城はおそらくJR新横浜駅の近くにあったのだと思う。何故知っているかというと所用で行ったからだ。たしかに小机駅があり、略図でも確認できる。鎌倉小田原方面からきた場合、
江戸城との線にぴったり重なる。つまりどちら側から見ても避けては通れない重要地点ということになる。私にとっては職を失ったときの重要拠点である。



 長蛇の列をなして、敵に横っ腹を晒す格好になったのは、信長の油断といえば油断であった。

 一応索敵部隊を出していたのだが、甘かった。
ここは風魔一族の庭であった。甲賀といえども縄張りの外であるから圧倒的に弱い。

 ――信長の物見、乱破などはすべて殺され、一切の情報は信長の元に届かなかったのである。むしろ信長の陣を出る時点でつけられていた――すべてが風魔の手の内にあったのだ。



 羽柴秀吉がようやく森をぬけて草っ原に出たのは、すっかり日も落ちた頃であった。

 「小六ぅ~城はまだかぁ、腹ー減ったぞぅ」秀吉が大声でがなり立てた。




秀吉が毛利の囲いを解いて関東についてきたのは、筆者の単なる気まぐれである。どうしても秀吉に来てもらいたかった。秀吉の小田原攻めはこの世界では存在しないからである。この世界では太閤秀吉は存在しない。

――その時である。前方がなにやら騒然としていた。

「殿ー、敵襲でござるー!」






――エピソードが決まらないため、概略のみ記述し、ときたま挿話を入れます。――





 そろそろ暗くなり始めた頃だ――戦術的にはかなりやばい。

 突如の合戦が始まった――。

 兵たちのどよめき――敵軍の喚声と自軍の兵の慌てふためきながらの応戦の声――。

「殿ぉ――!」「との――!!」

加藤清正、福島正則たちのどら声だ。

「おうお主らか――わしは元気じゃ。それよりも上様が心配じゃ……――状況がわからぬ。忍びを総動員じゃ。お主らはとにかくわしから離れず北条の木っ端侍を蹴散らせ!!」

「おうさ!酒の次にはこれが楽しみでござるよ。」二人は喚いて三国志の関羽・張飛のように駆け出した。




 織田軍は地理不案内な上、時は黄昏時に近づいていた。西も東もわからず関東に入ったとたん、いきなりの襲撃である。

 兵は散り散りに乱れた。

 柴田・前田・丹羽・滝川等みな苦戦しつつ防戦し、どの部将もおそらく全般の状勢がまったくつかめず、ただ目の前の敵を倒すことが精一杯であったろう。



 一方信長とその馬廻衆は、すでに案内役の土豪に誘導され、一路小机城に馬を馳せていた。



〈概略〉

 信長は小机城の手前で北条側江戸衆、大田氏資の軍に補足される。北部へ撤退――現たまプラーザ辺りの丘陵地帯に陣を敷く。




 ばらばらになっていた織田軍は遅々として集まらず、逆に北条勢は地理に明るく時を経ずして軍を集結、遊撃騎馬隊に集結を邪魔させ、一万以上の軍勢をもって信長の本陣に迫った。

 信長の陣に集まることが出来たのはわずか5千騎にも満たなかった。

 羽柴・明智・前田の軍がかろうじて本陣に加わったが、かなりの損害で力を発揮することが出来ず、押し捲られた。信長は何とか北関東制圧軍が来援するまで持ちこたえようとしていた。



 もう限界と信長が肝をすえたとき、北東の松林から突如として騎馬軍団が現れた。

 信長はまだ上杉軍旗を見たことはなかったが、あれがもしかしたら毘沙門天軍旗ではないかと思った。



 先頭で旗めいているのは「懸かり乱れ龍」の旗であった。

 もちろん上杉謙信の姿もあった。

 大将自ら先陣を駆けているのだ。

 謙信以下将兵はまったく無言のまま北条勢に打ち掛かっていった。




「ああ――上杉軍だぁぁぁ」

 北条軍の兵士が叫んだ。それは絶望にも似た叫びであった。

 北条勢がにわかに動揺し始めた。

 信長軍に攻めかかっていた最前列の兵士さえ戦うのをやめ、どうやら逃げるべきかどうか逡巡しているようだった。

 ――これはいつものことだ。関東の侍は常に上杉・北条の間を揺れ動き、北条が繰れば北条に傾き、上杉が来れば上杉についた。今日のような民族紛争とは違い、同じ民族なのでたぶんに馴れ合いのところが多いのだ。



 突入まであと少しのところで上杉謙信が振り返り、太刀を振って何事かを叫んだ。もちろんすべての兵には聞こえないが、阿吽伝心というのだろうか?越後兵が「おお――」と雄叫びを上げ、一斉に太刀を抜き次々と突撃していった。

 


〈中略――ていうか文章が出てこないのと、あまりのめり込み過ぎると先へ進めないので。〉


 北条勢が崩れ始めた。

 上杉謙信と織田信忠の北伐軍だけでも三万は下らず、さらに随身した佐竹をはじめとする北関東の諸将らの兵も馳せ下ってきているので、少なく見積もっても五、六万にはなるはずだった。

 まさしく大軍団の総攻撃に等しい。

 先鋒は上杉軍の精鋭八千――さらに織田信忠の馬廻り、および旗本が数千騎つづき、あるいは平行し、上杉軍と競い合っているようだった。

 西も東もわからぬままあちらこちらで戦っていた柴田・丹羽・滝川らも信長本陣とはいまだ合流できなかったが、浮き足立った北条勢に事態を察し、勢いはいまいちであったが各個に北条勢に打ちかかっていた。

 北条勢はあまりの上杉軍の突出ぶりに一斉に組織立った撤退は出来ず、ほとんど総崩れの状態だった。

 それでもなお謙信の追撃の手は緩まず、ようやく矛を収めたのは、黄昏時から真っ暗になり、これ以上の進撃はかえって味方の損害をだすだろうとの予測で中止された――時に八時を越えた頃であった。

 二時ごろから上杉謙信の軍が突撃に移り、えんえん半日は戦われ、織田軍が前半で数千の死傷者を出したが、後半では北条軍が七千人の死傷者を出し、川中島の戦いを凌ぐ一大野戦となった。



  ――略――





 総勢二十万に迫る勢いの上杉織田連合軍は、○日小田原に向け進攻を開始した。

 西の東海道筋からは三河の徳川家康軍がひたひたと押し寄せ、韮山城を落し、箱根山はほぼ完全に押さえていた。



 巨大な小田原城をさらに包み込むような大軍が埋め尽くし、それはまさに戦国博覧会を開いているようでもあり、関東関西の著名な武将の旗印・馬印・指物などがひしめき合い、絢爛豪華な甲冑を身に纏った鎧武者たちが小山のように揺れ動いていた。

 上杉謙信と織田信長は仲良く轡を接して闊歩し、そのすぐ後ろには信忠が従い、上杉織田両軍の諸将たちもどこからどこまでと色分けできぬほど仲良く交じり合って、だれも彼も上機嫌で高笑いし談笑しつつ馬上に揺れていた。

 本営は小田原城を望む小高い丘に設けられた。


 謙信はひしめき合う旗指物を見るのに忙しく、
目をきょろきょろさせ、信長に“あれは誰の旗であるか?由来は?”などと続けざまに聞いていた。信長の知らないことは信忠が即座に口を入れ答えた。




   小田原開城





 謙信は北条氏政に対し降伏勧告を行った。

 一方信長は戦で受けた恥辱で実は腸が煮え返っており、断固として北条氏の断罪を主張したが、
謙信がそれを抑えた。

 じっさい織田信長のみであったなら、小田原城内には猫の子一匹残らなかったろう。

 信長はかなり感情的になっており、一時同盟の破綻――戦になるやもと家来たちが気色ばんだが、そこは双方一端の政治家であり冷静に事を収めた。信長もあっさり折れた。

 謙信の余裕がそうさせたのであろうか――強大な武力を自負しつつやんわりと信長を説得したのだった。

さて、謙信の差し出した条件は、北条家より養子に入っていた上杉景虎に家督を譲る――ただそれだけだった。
 もちろん一門はすべて僧籍に入るのが条件であり、武家北条氏の解体であった。

 ほとんどの将兵を失ってしまった氏政は、力なくそれに応じた。関東制覇の夢はあっけなく断たれてしまったのである。



 小田原城下に集まっている二十万の上杉・織田連合軍と、ほとんどお祭り感覚で関東各地から参集した軍勢が急ごしらえで宿所を設営した。寝る場所も居るとなれば、さらに面積が必要となり、酒匂川を呑み込むように埋め尽くしていた。

 夜の帳が下りる頃にはあちこちで篝火や焚き火が炊かれ、関東と関西の兵士たちが興味と驚愕の入り混じった嬌声を発しながら談笑しつつ宴に入っていた。

 異文化の交流と、また、本来なら憎しみあって戦いを繰り広げていたかもしれない両軍が、酒を酌み交わす様はちょっと不思議な光景であった。

 彼らはお互いの貴重な情報を交換しながら、これから起こりうる様々な情勢を想像しつつ、平和の予感を感じていた。

 それは天下平定が予想以上に急テンポで展開しているのではないかということと、自分たちがその真っ只中に居てまさにそれを体感し、更にその立役者になっているという、沸々とした優越感であった。



 小田原城に入った上杉織田の首脳陣は、取りあえずは旅と戦の疲れを取りながらしばらく帯陣し、続いて棚上げされている西上作戦への段取りと陸奥を睨みながら関東に対する仕置きをすることとなった。



「信長殿大変でござったな。さらに長い遠征厚く御礼申し上げる。今宵は天守閣に泊まられるが良い。関東の海もなかなか絶景でござるぞ。」
「いやいやめっそうもない。関東の主は謙信公でござる。ここは謙信殿の居城になされませ。」
 さきの緊迫したやり取りはまるでなかったかのように、今度はお互いを譲り合って応酬していた。

 実は謙信はこうして使いたかったから城内を血で汚したくなかったのだ。

 

 これは歴史上の椿事であるといえようが、今や日本を二分する二大巨頭が、枕を並べて同じ部屋に寝るという驚くべき一事となった。

 信長は連日の強行軍が祟ったのか、疲れのためすぐさま鼾をかいて寝てしまった。




 小田原城天守閣の最上階からながめる小田原の海は絶景だった。

 今宵は歴史上かつて見ない大軍が城下を埋め尽くしており、その篝火や宴の焚き火が壮大な景観を創り出していた。



 耳を澄ませば波打つ太平洋のさざ波も聞こえ、
魚臭い磯の潮風さえ漂ってくる。

 謙信は昔を回想していた。

〈ながかったな……。もはや関東平定は諦めていたのだが――まさかこんな形で事が成るとは……〉



 本当は謙信は関東に対する欲がまったくなかった。世に上杉謙信は領土欲がまったくなかったと言われているが、実は関東自体にほとんど興味がなかったのだ。

 謙信の目の向いていた方向――それはずばり京であった。

 じっさい筆者がそのことに気づいたのは最近のことである。ながい長い謙信との付き合いのなかで、謙信が関東を平定できなかったのには納得できなかった。

 謙信が信頼のおけるだれかに越後を任せて、自らは江戸城あたりに居を構えればよいのだ。

 より戦略的に言うならば――江戸よりも松山城辺りが良いと思われるが――

 〈これも最近気がついたのだが、グーグルアースの衛星写真で見ると、小田原から北関東――下野・常陸方面へ出ようとすると、松山城を通過するのが一番最短なのだ。その道は陸奥方面にもまっすぐ伸びているのだが――、さらに上州方面に出る場合も松山城を通過することになるのだ。松山城はまさしく関東経営に気っても切れない存在だった。〉

 ――江戸はどちらかというと房総半島〈千葉方面〉に近いのだが、いろんな意味で海を抱えている江戸の地勢は戦略的に重要である。



 北条の関東進出を封じ込めるには三つくらい城が必要だった。でないと海から秩父の山塊にいたるまでが広く開いていて、容易に北条氏を関東平野に入れてしまうからである。

 もし仮に越後が敵の手に落ちたとしても関東だけでもやっていけるのだ。

 じつは上杉謙信は関東ではかなり人気者であり、佐野氏や成田氏などとの確執もあったが、謙信がそこにいれば関東諸将は続々となびいたのである。

 どうやらうまくいかなかったのは上杉憲実に関東管領職を譲られた時からである。

 謙信は何度も将軍や帝に拝謁するために上洛しているが、まさしく謙信の京都志向を窺わせるものである。信玄が死んだ後も信濃も攻めず関東にも本腰を入れなかったこともその証左である。

 ――さてこれを語り始めるときりがないのでこの辺でやめておこう――

 

 こよい謙信は、関東での三十年にもおよぶ激闘を振り返って、感慨もひとしおであった。






 半月ほどたって、兵たちもそろそろ暇をもてあまし始めた頃、ようやく九鬼水軍の巨大戦艦ほか数百艘の軍船および荷船が現れた。

 これらは伊勢湾から紀伊半島、難波津までの可能な限り動かせる船が信長の命によってかき集められたのだ。
さらに房総半島からは里美水軍も合流していた。

 すでに里美水軍は相模原合戦の頃より北条水軍と死闘を繰り広げていた。
しかし、三浦半島の北条方の水軍は、どうやら北条の旗色が悪いということで、気持ちに迷いが生じ、後半では水軍砦や港に引きこもったままだった。


水軍の頭目たちの間にはすでに動揺が走っていたのだ。

かくして、小田原港を埋め尽くすほどの大船団――のちの織田海軍の元となる一大艦隊がここに出現することとなった。
 


 
    軍団出航








〈始めに――その後の調べで、徳川水軍は存在しなかったようです。お詫びいたします)






 その時、小田原城に京よりの火急の知らせが飛び込んできた。

 京留守居役の織田信雄が勝手に兵を起こし、本願寺と合戦になったというものだった。

 発端は足軽同士の些細な小競り合いであったが、ことを聞きつけた信雄が本願寺討つべしと軍を起こしたのだ。

 上杉織田の連合はまだ不安定な時期であった。ことは畿内全域に波及し、毛利ほか反信長派の蜂起を促した。



 ――ことは急を要する――



 そのとき小田原城下の戦で傷んだ普請を視察していた馬上の謙信と信長は、そのまま使者を謁見し事の重大さを知り、すぐさま軍議を召集、軍勢を急遽上方へ取って返すよう決まったのだった。



  

 ここ二三年越後軍団は転戦につぐ転戦、郷土に席を暖める暇がなかった。

 
 すぐさま京へ上っても良いと答えた者だけを集めて三千の兵が集まった。別に強制したわけではない。以外にも古参の長尾以来仕えてきた譜代衆の年寄りが応じてきたのには驚いた。

 彼らとてすでに老い先短い命と観念しているのか、それとも上杉氏が天下の晴れ舞台に躍り上がる事に期するところがあるのか、いずれにせよ謙信にとって、両眼に水の滲み出ることを禁じえなかった。



「さて各々方、これまで我に従っていただき大儀に思う。我は急ぎ京へ行かねばならぬ。

よって、急ではあるが関東の采配を決めておきたい。」

「景勝――」
 
「ハッ……」

「そなたは兼継とともに関東に残り、北関東の諸将を取りまとめよ。そなたの口上は謙信の言
と心得よ。」

「ははっ……」

「最大の敵は伊達政宗……ぬかるでないぞ。」

「はっ」いつものごとく寡黙であった。




 ………………。
「景虎っ!」

「はっ!」

「そなたはしばらく小田原城にあって旧北条の家臣どもを束ねよ。……そちでなければ出来ぬ……相模の兵は今後ぜひとも我が先陣として必要じゃ。おおむね取り纏めたら即刻都へ上洛せよ。」

「ははっ!ありがたき幸せ!相模の精兵を都大路に見参させましょう。」

景虎の爽やかな口上が楼内に響き渡った。

「うむっ――急務じゃ!」




 信長は城内の茶室にて思考を巡らしていた。

 と、そこへ――、

「上様――、まずはそれがしに上洛の段取奉行を仰せ下さりませ!」

 秀吉が足音うるさくダンダンと階下から現れた。

「なんじゃ……そちがか??なにか考えでもあるか?」

「ははっ少々ございまする。」

「…………任せる!」

「ははっ、それではさっそく取り掛かりましょう。」秀吉は笑顔で答え、出て行った。

「やつめっ!……」信長は頼もしそうに含み笑いをした。





 城下は慌しく侍庶民ともども足早で活発に動き回っていた。

「兵糧をまわせ~!」

「武具はこっちじゃー!」

「殿ー……殿ー……!」

「水軍衆はこちらへ~――」







 翌日より早速軍団が動いた。

 秀吉の采配は迅速かつ巧妙だった。

 まずは兵らの具足を脱がせ、大船小船にのせた。身軽で機動力を増すためである。

 さらには槍刀、鉄砲までも武装解除させ船に積み込んだ。

 とても積みきれる数ではないので可能な限りであった。

 三河から尾張美濃にかけては在番衆が合流するし、京まではまったく敵がいない。武器は不要なのだ。

 さらに騎馬兵は先行し足軽どもは追随する形をとった。騎馬隊は駆けに駆けさせた。

 要所要所に替え馬、飯ほかを用意させ、日を徹して行軍させるという前代未聞の試みであった。

「猿はやはり賢いのう……」これにはさすがの信長も呻いた。






























 
















 船団には上杉軍の精鋭三千、織田の親衛師団とでもいうべき信長・信忠の馬廻り衆三千、ほか家臣団の要め、柴田・丹羽・滝川・前田・明智・羽柴等も馬廻り衆のみとして三千ばかりが乗船した。









 安宅船船首楼閣―― 



 楼閣といっても手狭ではあったが、信長と招かれ客である謙信、また艦隊司令とも言うべき九鬼義隆がともに座し、今後のことについて語り合っていた。

 










 


 








 



  








『太平洋の織田信長』――本編――


 沖縄首里城――。



 対上杉戦争で領土のほとんどを割譲し、西日本を治めることとなった。

 ただ上杉謙信は領土的な欲がないため、尾張・美濃・伊勢の領地は安堵され、拠点として堺港だけ残された。

 当初上杉軍に追いまくられ、本願寺や松永久秀の反乱に絶体絶命の窮地に立たされたのであったが、あわやと言うところで信長のほうが白旗をあげた。

 謙信のほうも東のほうが完全な支配ではなかったので妥協し、将軍を京に戻すこと、政道からは一切手を引くことなどで合意した。

 とはいうものの京周辺・奈良・大阪などの実質的な支配権を失い、暫時西国へ移行せねばならず、一時は大変な痛手だった。


 いわゆる上杉・織田の暫定的な共同統治であるが、信長としては武田信玄の上洛よりはまだましだと安堵していた。


 信長自身、日本の統一は難儀な仕事であり、さりとて逃げ出すわけにも行かず、信忠や信雄・信孝に譜代の家臣どもをつけて、気ままに出国しようとは思っていた。

 しかし、当面は東およびそれまでの宿敵だった本願寺勢力は上杉に任せることが出来たので、西国平定に全精力を集中させることが出来たのだった。

 西国に関しては一切仕置きを任されるので、実質毛利は捨てられたも同然である。

 



 
 信長は“案外このほうがよかったのだ”と思っていた。

 息子や部将たちに日本を任せてもよいが、結局軍勢を東西に分けなければならない。



堺に拠点を移した信長は、

 西国はただならぬ空気に包まれた。
 織田机下の全兵力が西街道に集結したのだ。
しかも信長自らが直接指揮している。
 民族大移動のごとき織田民族の大移動が始まった。前に突き進まなければ明日の糧はないのだ。 まず毛利が炎上し瀬戸内の水軍・海賊勢力を取り込んで下関に集結した。まさに怒涛の勢いであった。
 四国も領土の大半を奪われ、とうとう本貫の地に逼塞せざるを得なくなった。さらに各地で反乱が勃発、最終的に信長に白旗を掲げたのだった。

 そしてついに九州上陸――。

 信長の大兵力を前に有力大名は敢然と戦ったのだが、鉄砲を主力とする最新装備の織田軍の前には、蟷螂の斧が如しであった。
 中小の土豪は戦わずして門戸を閉ざすか、織田に誼を通じ傘下に加わった。
 最後に残った南九州の島津は、各方面、山地を抜けて行軍する織田軍になすすべもなく、さらには、東回りの九鬼・村上水軍、西回りの松浦水軍に海上からも攻め込まれ、あっという間に滅亡の道を辿った。

 九州侵攻作戦では連枝衆や家臣団が、さながら猟犬のごとく山野を駆け巡った。
 なかでも各地の土豪たちを調略しつつ次々とそれらを吸収し、隠然たる勢力を築き上げたのは、誰あろう羽柴秀吉であった。
 ほかの譜代の家臣たちもがんばってはいたのだが、秀吉の精力的な活動とその「人たらし戦術」には敵うべくもなかったのである。





〈編集会議〉
謙信がまだ続くのでフィリピン

  






  巻の一 信忠殿、フィリピン上陸のこと

 前方に青い島が見える。
 イエズス会の神父より手に入れた海図を頼りに港を探す。
 セブ島はどうやら数多くの島が存在するその中央にあるらしい。フィリピンはスペインの領土になったとはいえ、もともと数千年来営みを続けてきた現地民のものである。
 征服というものはそういうものだが、けっきょくは力の強いものに喰われる運命にあり、のちの歴史がそれを正当化する。しかし、月と地球ほどはなれたこの島を直接統治できるはずもなく、いずれは独立することになるだろう。

 かれらはまだ全島を掌握したわけではない。信忠はまだ支配の及んでいない北半分の島嶼地域を支配しようと目論んでいた。
 彼らもそれを座視できない。いずれは激突することになるだろう。


 ようやくちょうどよい入り江を見つけた。まだ入港はできない。当分は沖合いに停泊し、小船で往来するしかない。
「ようし、皆の者、これよりこの島を制圧する。だが、けっして現地民を殺してはならぬ。我が軍法により父信長公以来の『一銭切り』を施行する。」
 
 信忠は大音声で布令を発した。信忠も従う家臣たちも、ながい海上生活ですっかり海の男となり、声も大きく性格が快活になっていた。
 号令一下艦隊いっせいに上陸準備を始めた。
 カッターが下ろされる。とりあえずは部隊を上陸させ、橋頭堡を確保しなければならない。
 上陸部隊と平行して湾内の水深調査が行われた。ある程度の深さがないと大型艦は座礁してしまう。


 
 酋長ウナカイが出てきた。


   「織田軍団進撃せよ」

 軍団は西進した。
 軍艦にしては数十隻だが、目下各地の造船所で建造中であり、日を置いて東亜の大海軍が出来上がるだろう。
 まずはフィリピンへ乗り込む前に、兵站線の確保ということで、台湾を掌握する必要があった。
 台湾を取ることでまちがいなく明国を刺激することになり、何らかの動きをするはずである。漬物を漬けるときにつかう重石のようなものだ。
 信長は秀吉の性格を知っているので、奴が指をくわえて見ているはずはないと思いつつ、じつは彼の出方をひそかに楽しみにしていたのだった。


「奴め、どう出るか?」
 信長はいつも戦略を練る意味で、いつも暗いなか明かりもつけずにいることが多い。
 そんなとき南蛮渡来の椅子に腰掛けるのがちょうどよかった。ギヤマン製(ガラス)のグラスにワインを注ぐ。
 
 信長の心中では、これから先、スペインやポルトガル相手の戦いになることは避けられないので、最初の先遣隊使節は自分が引き受けようと思っていた。信忠を最初からぶつけるのは危険であると考えていた。
 もちろんこれから先は彼らの仕事である。王国も彼らのものであり彼らの作るべきものだ。しかし、造る前に主人公が死んでしまっては面白くもなんともない。だから捨石、あるいは道筋を切り開くブルドーザーが必要だった。

 年寄りはでしゃばらないほうがよい――とは思うのだが、それが一番よいとも思えた。

 信長艦隊が使節として先行する。そしてなにかあれば引いて、うしろの信忠率いる主力艦隊と入れ替わるのである。言ってみれば美女を先にたたせて実は後ろにやくざがいるようなものだ。
 
 信長の艦隊は新造の主力戦艦が五隻、在来型の軍船が数百艘あるが、西洋帆船にどれくらい太刀打ちできるかわからない。







 倭寇は半海賊・半商人であったと言われている。その意味がようやくわかった。いわゆる彼らの赴く先は、未開の地であり、敵地でもある。いつ何者に襲われるかわからないのである。また海賊稼業は不安定なものである。あまりやりすぎると獲物が寄ってこなくなるし、基本的に掠奪は犯罪であり、恒常的にできるものではない。
 それに比べればやり方を間違えなければ大きな収入と、安定した暮らしを得ることができるのである。海賊稼業はふつうに世の中に受け入れるはずもなく、民衆や国家までも敵に回すことになり、危険極まりない稼業である。
 そこで商人になろうとするのだが、やはり危険なのである。海が危険なのは当たり前のことだが、人為的な危険は海賊と自国以外の軍艦である。敵国であるか、そうでなくても拿捕される危険が付きまとう。そうなって来ると撃退するか逃げ足が速いかにかかってくる。けっきょく商売するにも武装しなければならないのだ。
 解釈する人によっては、それが「表の顔であり、裏の顔でもある」ともいうが、日本では警備業とか傭兵が発達しなかったので、自らが武装して行った姿であると思う。


 信長の艦隊も武器を隠し持ち、表向きはきらびやかに装い、目立たぬように武器を隠していた。





  『織田太平洋艦隊、フィリピン進出』


 先行部隊は信忠を総指揮官とした主力艦隊である。
 が、先陣艦隊は羽柴秀吉・明智光秀などの老練組であった。これは信長の指令である。体のよい砕氷船――露払いである。彼らが死んでも人材はいくらでもおり、織田家は痛くも痒くもない。
 信忠艦隊大小あわせて300隻。
 後方には信長の艦隊が控えている。なにかあったときにすぐさま対応できる体制である。

 
 

  『沖縄仮本営、信長――秀吉』

「上様、是非私めに先陣をお任せくだされ。」
 秀吉は心にもないことを言った。また露払いか?とあまり乗り気ではなかったのだ。しかし、功がなければ殺されないまでも追放されることは目に見えている。織田家にいる限り、独楽鼠のように働かざるを得ないのだ。
「サル、どうだ。今回は未開の原住民相手、これまでとは勝手が違う。なにかよい知恵はあるか?」
「はは――、それにつきましては考えてまいりました。土人と申しましても、手なずければわれらのために働きまする。それに日本を上杉に取られてしまいましたので、兵その他あらゆる人材が不足しております。」
「うむ、景虎もあれで温情味のある男、すべてをこの信長から奪うつもりはないらしい。まあ、これも好機、いつまでもこの小さな島(日本)にいても始まらぬ。」
「左様でござります。上様には世界の果てまでも行ってもらわねばなりませぬ。……ちと、のどが渇きましたので、頂きますぞ」
 といって秀吉はグラスのワインを一飲みにした。
「さてと……私の考えた作戦ですが、現地民の島に我々がいきなり入り込むのですから、当然彼奴らも警戒し槍を取って待ち構えます。そこで女子でございます。」
「なんじゃ、またわれは女子か。」
「いえいえ、そこがでございます。まず前面に女子を押し立てるのです。さすれば彼らも警戒を解き心を開き、甲冑武者が槍を抱えていくよりは効果的かと」
「ふうーむ……であるか」
 信長は意表を突かれた思いで、深く考え込んだ。
 これは前例がないわけではない。
 あまり取りざたされてないかもしれないが、確かに私個人の一古代史の一考証である。
 神代の昔――神の世と人の世が交わる時代、
天孫ニニギの尊が高千穂の峰に天下り、道中土地の酋長であろうか、猿田彦というものに出くわした。するとニニギの尊は天の珍女の命を前面に立てて胸元を広げて乳房を露にした。すると度肝を抜かれたのか、へなへなとなってしまったのか、その後猿田彦は天孫の道案内をしたという。
 これは非常に意味深いものがある。
 私は政治を考える場合、常にこのことを考える。男は元来野蛮なものであり、女性の柔らかさと優しさがなにかと成功をもたらす場合が多いのだ。私が思うに

「猿、そちに任せる。案外その方がうまくいくかも知れぬ。」
「ハハ――それでは明日にでも取り掛かりまする。左様――女郎、芸子、舞姫などに声をかけますれば、きっとよいのが見つかることでしょう。」
「ふふ……まあうまくやれ。」
 信長はなぜか含み笑いをしながら、酒盃をグイッとあおった。
 “猿め、うまい口実を見つけたな……”
 秀吉の女好きは有名であるから、誰彼とはいわずそんな情報が信長の元に入ってくる。どうせ奥方には公務と称して女漁りをするのだ。女の勘は鋭いからその魂胆はわかるのだが、名目があればさすがに寧々も攻めあぐねてしまう。
 そんな夫婦の光景が目に浮かび、信長ならずとも含み笑いしてしまうだろう。
 “しかし、この役、猿にうってつけであろう。
まだまだあ奴は使える。壊れてしまえばそれまでよ”
 夜は深深と更け、細波の心地よい響きとともに、密談ではないが、主従二人きりの宴は続く。
 

  『秀吉、女漁り』

 秀吉は寧々のご機嫌取りと自身で「底引き網」と名づけたこの作戦のために先手を打とうと、書簡をしたためることにした。
 認め終わると早速買出しに出かけようと、小六を呼んだ。小六とは蜂須賀正勝のことである。
「殿――こうやって大っぴらに女の買出しに出かけられるのは、久しぶりにございますなあ。
初めて京に上がられて、代官になられたとき以来でございますぞ。」
「アハハハ、そうであったのう。京女はやめられぬわ、ウハハハ……」秀吉は上機嫌であった。 

  『羽柴秀吉先陣』

 秀吉先陣は総勢数万騎……といきたいところだが、今回は外交全権大使のようなものだ。あまり派手な軍装は好ましくない。しかも海岸から見えるところは飾り幕で覆い、こちらが軍艦であることを隠すという徹底振りである。
 なにしろ原住民にしろスペインなど侵略軍にしろ、刺激してはまずい――彼らの艦隊と真っ向から戦って勝てる絶対性はない。秀吉の発案は当を得ているのである。


  『台湾――島嶼――本島』


 秀吉先鋒隊が前方の航路を切り開き、本体主力艦隊が各島々に補給基地を設営した。
 情報によれば呂宋島にはまだスペイン人は入植していない。ということは先住民の了解を得れば切り取り放題ということになる。主人信長
の考えはわかっているので、犯罪行為はご法度だ。
 フィリピン本島が見えてきた。青くうっすらと島影が浮かぶ。
「前方、島影発見――。」望楼にいる見張り員が叫んだ。秀吉はこれであの年かと思うほどの素早さで艦首楼にすっ飛んでいった。
「おお、あれが呂宋なる島かのぉー」
小六と羽柴秀長も一緒に来た。


  『秀吉軍初上陸』

ぶつかった島を右回りにすすむ。

 女衆が着飾って浜辺に降り立った。
 まさしくニニギの命の天孫降臨図である。あんがいニニギの命の降臨も空から降ってくるわけはないから、同じ図、秀吉たちと同じ心境であったかもしれない。
 浜辺に数人の子供たちが遊んでいた。肌は浅黒く丸裸である。
 女たちは無邪気な子供たちについにっこり笑って、飴やお菓子を与えた。

 まもなく漁師たちが出てきて日本人と対面することになった。
 







  『フィリピン中央部湾――港湾建設』
 数日してしばらくいくとちょうどよく入り込んだ湾が見えてきた。
「おう、秀ながー。ここなら十分大きい港が出来そうじゃな」
「左様でございますな。真仁羅が攻略できなかった場合の前進基地となりましょう。」秀長が秀吉に望遠鏡を手渡しながら言った。
 望遠鏡はまだまだ貴重であり、自家生産できないぶん南蛮人から買い入れねばならない。信長・信忠・秀吉ほか数名の艦長以外には配られてない。
「よーし!あそこに上陸じゃ。マニラにはいる前に港を整備し、兵士に休養を取らせようではないか。」
「ははっ、早速取り掛かりましょう。」といって、秀長は甲板をのっしのっしと歩いていった。

《さてよ、問題じゃな……。土人がいかに出てくるか?おそらくうようよいるのではないか。》

 五隻の戦艦から小船が降ろされ、漕ぎ手と兵員が乗り込んだ。旗も立てずことさら仰々しくはしない。


  『マニラ入港』

 秀吉は納屋助左衛門に信長の意思を伝えた。
 信長は一個一個の土地に執着し、占領するつもりはない。要は要所要所に(住民たちの生活を破壊しないで)拠点となる町を建設し、楽しく暮らせればよい。ここは楽園であり、血で汚したくはなかった。信長の頭の中には「国」という概念はなかった。
 納屋の船が先行しマニラ湾に入っていった。
 その情報によればスペインはセブ島までは占領したものの、それ以上は人材物資などが不足してか、進出してきてはいないらしい。
 そのかわりイギリスの商館が建っているという。彼らの動向としては、それが侵略であれなんであれ、進出しては来ているがスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスなどで互いに潰し合いはしないらしい。なにしろ遥々半年以上もかけて来るのだから、お互いに砲戦でもして
貴重な軍艦を失いたくはないのだ。
 その点日本は有利である。近いので何隻沈められてもすぐに補給がきく。


  『マニラの街中』
当時すでにマニラ湾には中国人の大きな町が出来ており、東南アジア各地から持ち込まれる交易品が取引されており、その繁栄ぶりは目を見張るものがあったという。 
 
 港がきちんと整備され、各地からやってきたそれぞれの国独特の船が舳先を連ねていた。なかでも中国商人や漁業を生業とする中国人たちのジャンク船が最も多かった。
 今日も積荷の揚げ降ろしや魚類・海産物などの運搬で、人足や商人・買い付けに来た住人たちでごった返していた。
 その中を秀吉と納屋は肩を並べて歩く。秀吉の側近たちも付き従っており、周りを加藤・福島らの侍たちが取り囲んで警護している。
 
 いまから400年も前のマニラ市民らは、突然の訪問者に驚いていたが、来航者は頻繁に出入りしているのでいちいち驚いてもいられない。
ただ、日本船らしいこと、倭寇やいままでの商人ともちがうこと、そして今までに出会ったことのない独特な統制のある集団であることに、口には出せないある種の緊張感を抱かせるものがあった。

 しかしいままでの一皮向けば海賊のような、得体の知れぬ商人くずれとも違って、気を許せそうなのは確かであった。
 
 秀吉は上機嫌であった。それまで大陸に色気を使っていたのが嘘のようである。
「小六ー、ここはお面白そうな街じゃな。熱いが海がきれいじゃ。菓子(昔は果物のことも言っていたらしい)などもうまいらしいし、さっそく食べてみたいものじゃな。……さてさて困った。娼館はどこにあるのじゃ?」

「殿、またそれでございますか? いや、左様でございますな。さっそく探しに……あ、納屋殿いかがでござる?」
「はあ、ございますぞ。さほど規模は大きくないのですが、お金を持った商人、女に飢えた海賊や漁師たちが頻繁に訪れますから、どうしても必要となるのです。いかがですかな。この辺りのおんなは中国や朝鮮女ともまったく違いますから、日本の食い物に飽きた方にはちょうどよろしいかと!。」
「おおそうか、そんなにいいかぁ――お館さまぁ
、これはぜひ味見してみませんとな。」小六がすっかり有頂天になって言った。
「そうじゃな、今宵は久しぶりの女じゃな。」
 秀吉が同調すると、
「これこれお二人とも信長さまに仰せ付けられたお役目をお忘れですか?」
「ああそうであったな。」
 羽柴衆の高笑いがマニラの街に響く。

  『中国商人楊鵬翔の館へ』

 助左衛門は勝手見知ったわが庭のように、何の遠慮もなんの警戒心もなく、街の色合いに溶け込みながら、ただふつうに歩いていた。
 たまに見知った者であるらしく、明の言葉や現地の言葉で挨拶を交わしていた。このような人がいるかいないかで、旅先での不安はだいぶ違う。
 先ほど楊家の者が納屋の顔を見つけ、声をかけてきたので、もう鵬翔のもとへ知らせがいっているはずである。

 しばらく歩いていくと立派な門構えの屋敷が見えてきた。
「あれでございまする。」どうやら楊の屋敷らしい。
 秀吉主従がはいっていく。供の者たちは入れぬと思っていたが、楊の計らいで屋敷の中へ招じ入れられた。門の外には5,6名の足軽が警備のため残された。
  
 助左衛門が通訳し秀吉に伝えた。
「これはこれはようこそいらっしゃいました。さぞやお疲れのことと思います。私、杭州生まれの商人でございます。マニラのことについて分からないことがございましたら、何なりとお聞きください。ご用向きも仰せ付けください。」
 この商人はかなりの蓄財があるに違いない、と秀吉は驚いた。納屋の豪勢さもかなりのものだが、それとは比べ物にならなかった。 
   



 『シーレーン警備』
 心の片隅で考えていたことは、彼らの海上警備を買って出て、お金を儲けようというものだった。織田家は日本から覆いだされたようなものなので軍資金が足りない。いまのところは大丈夫だが、将来のことを考えるとそうも言ってはいられない。
 また、秀吉は織田家に世界の果てまで取ってもらいたいと思った。世界は広いからその分け前をもらえばよいわけだ。
 というよりは目の前にある国がすべて自分のものであるということだ。つまり切り取り次第である。





 
  「イギリス領事館」
 
 楊の歓待を受けたあと
イギリス外交官と会う。


  『全般情勢』

 信長は陸軍力では圧倒的に勝っているが、海軍力で南蛮勢力に劣ると分析していた。
 こちらの海軍力は西洋並みの戦列艦はたったの5隻しかない。在来型の和船は多いのだがそれで南蛮戦艦に勝てるかどうか未知数である。
 信長自慢の鉄甲艦が5隻、普通の軍船として使われた安宅船は大型が五十隻、一回り小さい型は百隻はあった。大小をあわせればかなりの数にのぼる。
 いわゆる数で圧倒するしかないのだが、包囲する前に各個撃破されたら意味がない。
 信長は艦隊が充実するまで激突は控えたほうがよいと考えていた。
 





〈当時のフィリピン情勢ページを切り取る〉
〈毛利水軍のデータ、織田VS毛利海戦のデータ、
〈朝鮮海戦のデータ〉


1、強気で艦隊決戦をやるか、
2、持久戦に持ち込むか、
3、貿易を主とし、直接戦闘を回避する。


〈信長は穏便作戦に出たが、そのうち在る事件をきっかけに激突、双方手痛い打撃を受け、戦略的に日本の負け、――これでいく〉








  「秀吉家臣団」

加藤嘉明
黒田孝高、長政
富田一白、文官 
前田玄以、政治家、利家と関係なし
稲葉重通〈しげみつ)、馬廻り
 稲葉利貞、道通〈子)
戸田勝隆、黄母衣衆
中川秀政 
蜂須賀家政、小六の子、黄衆
牧村利貞
脇坂保治


秀吉、秀長、蜂須賀、
〈文――石田、小西、
〈武――加藤、福島、片桐、 
〈参謀格――黒田、竹中。

















  『松平信康のこと』
徳川からは人望も篤かったが、太平の世を嫌い戦乱を求める激しい性格の松平信康が、出奔し織田家に従っていた。実は家光や三河以来の老臣たちと折り合いが悪かったらしい。
 









 ――秀吉は思った。
 どうせこの先織田軍団の露払いに使われることだろう。
 ならばいっそ阿修羅となって戦い、この世の果てまでいってやろうではないか。行けるかどうかはわからないが、伴天連の本国まで行きたいと思った。






――もちろん実質的には支配することには違いないが、






 










   「対スペイン掃討戦」

 信忠はスペインという大国相手にかなり苦戦を強いられるだろうことを予想していた。
 ところが来てみればスペイン正規兵は数百人程度ではないか。当初は数千人規模の軍隊を予想していた。
 これは最初協力的だったイエズス会の神父たちがだんだんしゃべらなくなったことによる。日本側の意図を知るほどに、スペイン本国の対アジア戦略が破綻するのではと、危機感を抱き始めたのである。
 一時期は神父らを軟禁状態にして取り調べたが、大名にさえ信者が多い神父らを拷問にかけるわけにもいかず、あまり情報を得られたとはいえなかった。

 信忠艦隊はすでに水道を抜けて、マニラ湾にちかづいていた。
 
 
 





 
  













































   「織田信長探検隊」


「父君も性懲りもない――また化物を探しにいったらしい。
こんどは海の竜とやらを捕まえるという。海では命がいくつあっても足りまいに……。」
「はあ、左様でございますな。曲がりなりにも森殿がついておりますれば、安心とは申せ、南海は未開の地ばかりでございます。心配ではございますな。」
「まあ仕方あるまい。怪物の尻尾でたたかれたほうが少しは薬になるであろうよ。」


 そのころ信長はミンダナオ島の東側を抜け、一路ボルネオ方面に船首を向けていた。
 戦争のことは信忠に任せているとはいえ、信長のほうも遊撃艦隊として6隻の戦艦を保有している。
 信長は左翼を固め、信忠を影から支えようとしていた。
悪魔のように恐れられた信長ではあったが、家庭に入れば一人の親であった。顔には出さないが、心配で心配で仕方がないのである。
 いつまでも政局に携わっていてもきりがない。それよりも眼前に広がる大海原と未知なる世界、常夏の天国の探検に夢中になろうとしていた。
 洋上でワイングラスをかたむけるそのグラスのなかに、満天の星星が煌めいていた。
「もうわしも六十になろうとしておる。あとは信忠や倅どもにまかせ、自由気ままに生きるだけよ。……怪物退治はやめられんがな。のう、権六」
「はは、お館さまにはごゆるりと余生をお過ごしいただくのが、一番でござりいましょう。」
しあばた権六が返す。
 左横には前田利家が控えていた。
 ググーッと遠い地の果てで造られたであろう深紅のワインを飲み干しながら、フウッと一息入れると、
「さようでございますな。上様、あ、いや、お館さまはいままで人の倍以上に働かれました。少しは信忠さまや信雄
さま信孝さまにも仕事を残しておかれませんと。」
「ア、ハッハッハ、そうか……そろいもそろったものじゃのう。年寄り崩れの井戸端会議であるか――。」
 今宵信長は上機嫌であった。

 船上の顔ぶれは――、柴田勝家・前田利家・滝川一益、織田家創世依頼の顔ぶれである。かつては織田家の舵取りであったことからずいぶん言動が荒っぽかったが、最近ではほとんど隠居の身であるから、性格が穏やかになったようだ。





























 信長艦隊はあるひとつの島を目指していた。その島はのちにグアムと名づけられることとなる。

 






スペインは日本まで支配しようなどとは考えてはいなかったであろう。そのごイエズス会の報告によれば、鉄砲なども自家生産できるほどの技術力があり、乱世の中で個々の侍集団がかなりの軍事力を持っていることがわかっている。キング信長の存在が、スペインの思惑に箍をはめていた。 
                  たが 




   
































 
 スペイン王宮――。
 フェリペ2世はいらいらしていた。
 こともあろうに東洋の猿に陽の“沈まない国”といわれた王国の権威を辱められ、きっと対立関係にあるイギリスの貴族どもは笑っているに違いない。
 みすみす東の土人どもに権益を奪われるよりはと、ついに意を決した、
 1585年、スペイン極東遠征艦隊がどうどうの出航した。戦列艦数十隻、中型艦、輸送船等史上空前の規模である。
 














信長の怪物退治を軸に、

 信忠軍、秀吉軍、の中国、インドネシア進出を描く。





















一艘のカッタアなるものをおろし、






丹羽長秀
滝川一益


池田恒興
池田輝政


佐々成政

蜂屋頼隆(はちやよりたか)
黒母衣衆として戦場を往来する一方、信長から政事の相談もうけた。
のち、秀吉に仕え天正13年に敦賀4万石を領した。



斉藤長龍(さいとうながたつ)
道三の子で通称新五郎。美濃加茂市の加治田城主。天正6年越中に出陣して上杉の部将河田長頼らを撃破。
本能寺の変で信忠を守護し討ち死にした。

佐久間盛政(さくまもりまさ)
柴田勝家の甥で鬼玄蕃とも呼ばれ勝家の北陸平定を助けた。
天正8年、一向一揆を平定して加賀国を与えられ金沢城に入った。
賤ヶ岳の合戦では、中川清秀の守る大岩山要害を落としたが功をいそぐあまり進退の時機を誤り秀吉の急襲を受けて柴田方の大敗の原因となった。
秀吉は盛政の武名を惜しみ一命を助けようとしたが、ついに肯んじなかった。
天正11年山城槙島で首を斬られた。


蒲生氏郷(がもううじさと)


武藤弥兵衛(むとうやへえ)
信長が信頼した軍諜で天正3年以降越前敦賀城主となった。
九鬼嘉隆



信長警護衆
● 馬廻・小姓団
├ 長谷川秀一
├ 掘秀政
├ 森蘭丸
├ 森力丸
└ 森坊丸 など

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