上杉謙信特化型のブログ ですが、ちょうどNHKで直江兼継をやってますので、謙信以後の景勝、兼継主従のことなども混ぜてお話したいと思っております。

2009年9月21日月曜日

『毘沙門天』の旗印

   『毘沙門天』





 毘沙門天は四天王の一神で、北方を守り、仏法を守る仏神である。
 古来より日本では東北、東日本に祭られており、軍神として以外にも
精神的なよりどころとされてきたのである。
 それは主に蝦夷(先住民族)と大和族の対立の結果とも言える。当時、彼らの存在は脅威であったのだ。

 毘沙門天は戦い・勝運の神であり、須彌山の中腹に城を構えて北方を守り、いろいろな夜叉や使者を統率して、仏法を守護しているという。


  『毘沙門天』軍旗   

 毘沙門天軍旗は上杉軍のシンボルといってもよい旗である。
 大きさは畳二畳ほど(それ以上かも)の大きなもので、字体は力強い。
 上杉軍の強さとあいまって、この旗のはためくところ敵がみな逃げ出したという。
この軍旗だけでもかなりの効果があった。
 たった一字に刻まれた旗なのに、不思議である。
 見ていても何かしら勇気がわいてくるのである。
 それはこの旗が正義の旗であり、その意味するところの背後にある上杉軍と越後兵の存在が、また不気味に威圧しているからだと思う。よき心を持った人はこの旗に安心感を覚えるが、邪な心を持った人は恐怖を抱くのである。それは彼らが毘沙門天によって狩られる運命にあるという証である。

 私はそれが現代にも通用すると思っている。この悲惨な事件の多い世の中、正義なくしてなにをよりどころにすべきか? 海外の悲惨な戦争や紛争事件を聞き及ぶにつけ、毘沙門天の旗が脳裏によぎる。

『懸かり乱れ龍』の旗

 この軍旗は上杉軍の総攻撃の際に陣頭に掲げられる、つまり「全軍突撃」の合図である。
 満を持した総攻撃の様は身震いするような光景えあったろう。
 生きるか死ぬか、どちらかなのである。引くことも逃げることも許されない。
 武田軍は果敢に立ち向かったが、関東ではあっという間に陣が崩れたり、逃げる軍勢も多かったという。
 
 実際問題、武田にしろ、北条にしろ、上杉軍との総掛かりの戦いは避け、軍を引くことが多かった。
 そして上杉軍がいなくなったころ、また来るのだ。
 川中島の戦いは例外で、いつまでも逃げていては仕方がないと、信玄が越軍の二倍以上の軍を動員し、
決戦に出たものと思われる。
 もちろん「懸かり乱れ龍」の旗が掲げられると同時に上杉軍の突撃が始まった。


 私の家に毘沙門天の旗と、懸かり乱れ龍の旗がある。
 東北の義経を求めて、平泉へ行く途中、上杉米沢藩の会った米沢にも足を伸ばした。
 上杉家の廟所を訪れた際、神霊のお導きか、上杉藩の鉄砲隊の隊長に出会った。
 まったくの偶然であろう。
 米沢には今でも鉄砲隊がある。その人は体格の良い大柄な人だった。
 次に菩提寺に行くと、おまいりが出来るようになっていて、上がらせていただき、仏に合掌した。
 するとその合掌する手が左のほうに信じられない力で動いていった。そこには多分、謙信公以来のものであろう毘沙門天立像が置かれていた。毘沙門天が私を待っていてくれたのだ。
 するとうしろで様子を伺っていた住職が、応接間に招じ入れてくれた。高梨さんという人だった。
高梨姓は旧北信濃の豪族で、川中島以後、ずっと上杉家に仕えた。
 市内を散策し見つけた染物屋が、この旗を造ってくれた。昔より上杉に関わる家柄なのであろう。
 毘沙門天のお導きというべきか。

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