上杉謙信特化型のブログ ですが、ちょうどNHKで直江兼継をやってますので、謙信以後の景勝、兼継主従のことなども混ぜてお話したいと思っております。

2009年10月19日月曜日

上杉謙信

私は最近、『太平洋の織田信長』という小説を書いていますが、

上杉謙信の生涯をあれこれと考えているうちに、はたと気づくことがありました。

北条・武田と関東の地で戦いに明け暮れ、そのわりには領土は拡張しなかった。

あれほどの武威を誇りながら、結局関東を制圧できなかった。

最後には上野の地を残してほとんど北条方に奪われていた。

 それでも謙信はよしとしていた。――それは関東に執着がなかったと気がついた。

関東に攻め込んだと思ったら、越冬もせずに引き返してしまう。

 残された土豪たちはせっかく上杉についていても、北条がくれば下るしかない。

一番いいのは関東に居座り続け、勢力を広げることだ。

なぜそれをしなかったのか、佐竹を始めとする北関東の諸将たちはみな反北条だった。房総の里美氏は根っからの上杉派だった。

 それなのになぜ……。 そこなんですよ……問題は……


 謙信は実は京都志向派だったんです。信長よりも、とにかく京に出て覇を唱えたかったのは上杉謙信なんです。

 信玄が死に、北条との同盟がなり、本願寺とも同盟がなるとすぐさま西上の軍を起こしました。

関東はどうでも良かったのです。これをいうと関東の諸氏に怒られますが……北条のためにいっぱい死んでますからね。

 しかしまた、早くからそれを出来なかったのも武田や北条がいたからなんですね。

 信玄も馬鹿といえば馬鹿なんですね。関東にとらわれたり、越後を欲しがったり……それはあまり意味がないのでは思うのですが……

 早くに和平を実現し西に向かっていれば、あんなことにはならなかったと思うのですが……
  パチンコとおなじですかね……川中島で台を打ちすぎてしまって、金は使ったのにあまり実入りが少なく、気がついたら夕方……

    「あれ~~もうこんな時間だ……京都へ行かねば……。ああ~~特急がなくなっちまったぞ~~新          幹線ね~し……夢中になりすぎた~~」

    そんな感じでしょうか……

大迷惑は上杉謙信のほうです。

「別におれは関東なんかいらね~~し……あ~~あ関東管領受けなきゃよかったな……しかしなりゆきだったしな~~ま、ちと欲しかったつ~~とこもあるんだが……」

「それにしても信玄、氏康、あんにゃろ~ども、おれの邪魔ばっかしやがって……覚えてろよ。しかし、こっちも時間がなくなっちまったな……終電あるかな~~」

   大迷惑です。

 ひとり北条氏康はタバコをふかしながら、「明日は江戸前の寿司がいいかな~~、あさっては川越のそばかな~~  へ、信玄、謙信のば~~か!」


 ま、こんなとこですか。いちおう裏付けもあるんですが~~

  反論、同調、いろいろあると思うんですが、暇な人はコメントください。今日はこれまで……

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