上杉謙信特化型のブログ ですが、ちょうどNHKで直江兼継をやってますので、謙信以後の景勝、兼継主従のことなども混ぜてお話したいと思っております。

2010年2月7日日曜日

上杉謙信の過小評価について3

人生の前半では武田・北条との戦いに明け暮れ、気がついてみれば四十を過ぎていた。
戦いながらも京都への北陸ルートを何度も開拓しています。
 が、本願寺勢力が強く、打通作戦は成功しなかったのです。

 本願寺勢力の一向一揆は怖かったですよ。死を恐れない狂信者の集まりですから。
 今日のイスラム過激派――ジハード――爆弾特攻とおなじです。戦国武将はみな苦労しています。
あの徳川家康でさえ、一揆との衝突で滅亡の危機を迎えたこともあります。

 ようやく対織田信長で手を差し伸べてきた本願寺と同盟を結んでから好転したようです。そのころには信玄も死に、北条ともうまくいき始めました。

それからです。謙信が北陸へ侵攻を開始したのは。

その情熱は関東、信濃の比ではありません。
 謙信が城攻めで謀略を使ったのは、このときだけだと思います。
(正義に反してまで上洛を急いでいたのです。)
 謙信から正義のモラルをはずしてしまうと、かなり恐ろしいと思いますよ。

結果的にうまく行かなかったかもしれませんが、

 私的に謙信の人生を考えてみて、

「うるさい信玄の太刀を振り払いつつ、また関東からけつをつつかれ、その槍をへし折る。
 上洛したいので、つねに北陸をにらんでいる。」

謙信は北条武田の鋭鋒をくじくにとどめ、上洛を目指していたのだとおもいます。

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