上杉謙信特化型のブログ ですが、ちょうどNHKで直江兼継をやってますので、謙信以後の景勝、兼継主従のことなども混ぜてお話したいと思っております。

2010年2月8日月曜日

謙信の過小評価について1

上杉謙信は領土欲がなかったといわれています。
確かにそうです。

 私は他の戦国武将に共通していえることは『領土拡大型』であるということです。

それでは上杉謙信はなんなのか?

 ズバリ上杉謙信には独特な帝王学があったと思います。

彼はたしかに足利家を後押しし、天皇の権威を認めていました。

天皇でも将軍でもありません。しかし、私にはある意味、彼は帝王ではなかったかと思います。

 帝王の領土はこの世すべてです。初めからそれが領土なのですから領土を欲する必要もありません。

彼には慕ってくれる人々がたくさんいました。それで十分でほかに何が必要ですか。


   彼には天下取りの欲望がなかったか、自らが支配者になることはなかったと思いますが、じつは誰も気付いていないことがあります。

謙信の過小評価について2

関東にたびたび出陣して領土拡張もなかった。
信濃に出陣しても川中島は得られなかった。

 それはなぜか? 謙信には欲しいと思わなかったのです。

上杉謙信と付き合ってすでに25年くらいですか。
最近までわかりませんでした。

  ようやくわかってきたのです。

謙信の欲していたのはただひとつ――京都――そしてそのための上洛だったのです。

幕府の中枢に入り乱世を終わらせたかった。日本の国づくりをしたかったと思います。

 謙信は若いころたびたび京都に行ってます。京都びいきなのです。

川中島には信玄が出て来るし、国境を接しているのでそのままではまずい。うかうかしていると越後まで入り込んできてしまうのです。戦わざるを得ません。しかし、信濃が欲しいわけではないので、信玄が出てきたら出張るといった感じです。こちらからは積極的に攻めようとはしませんでした。

関東は本当はどうでも良かったらしいです。
しかし北条が荒らしまわるので仕方なく出向きました。いちおう関東管領ですから。

また、謙信を慕い期待している武将たち(佐竹・里美・結城・宇都宮・長野・太田など)が多くそれらを無下にも出来なかった。

何度も何度も出陣しながら関東に落ち着かなかったのは、興味がなかったからです。

 問題なのはいかにして上洛を果たすかでした。

2010年2月7日日曜日

上杉謙信の過小評価について3

人生の前半では武田・北条との戦いに明け暮れ、気がついてみれば四十を過ぎていた。
戦いながらも京都への北陸ルートを何度も開拓しています。
 が、本願寺勢力が強く、打通作戦は成功しなかったのです。

 本願寺勢力の一向一揆は怖かったですよ。死を恐れない狂信者の集まりですから。
 今日のイスラム過激派――ジハード――爆弾特攻とおなじです。戦国武将はみな苦労しています。
あの徳川家康でさえ、一揆との衝突で滅亡の危機を迎えたこともあります。

 ようやく対織田信長で手を差し伸べてきた本願寺と同盟を結んでから好転したようです。そのころには信玄も死に、北条ともうまくいき始めました。

それからです。謙信が北陸へ侵攻を開始したのは。

その情熱は関東、信濃の比ではありません。
 謙信が城攻めで謀略を使ったのは、このときだけだと思います。
(正義に反してまで上洛を急いでいたのです。)
 謙信から正義のモラルをはずしてしまうと、かなり恐ろしいと思いますよ。

結果的にうまく行かなかったかもしれませんが、

 私的に謙信の人生を考えてみて、

「うるさい信玄の太刀を振り払いつつ、また関東からけつをつつかれ、その槍をへし折る。
 上洛したいので、つねに北陸をにらんでいる。」

謙信は北条武田の鋭鋒をくじくにとどめ、上洛を目指していたのだとおもいます。

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